7月14日 ふるえる

ここ最近、Twitterから遠ざかっていて、情報はラジオと朝日新聞だったせいか、すっかり偏っていた。ふるえるデモ、とか、シールズのこと、今日まで知らなかったのだ。私としたことが!

学生が安保法案改正に反対して、デモをしたりして頑張っているらしいということは、Facebookの友だちの書き込みからなんとなく知っていたけど、原発だって止められなかったし、左翼の言説は最近人々に届かなくなっているらしいし、ここのとこ、潮目は変わってきたけど、マスメディアが政権に押さえられちゃってるんじゃ、と冷めた気持ちでいた。

が、東京FMタイムラインで自らを右翼とする宇野常寛さんが、ふるえるデモの新しさと本気さを評価していたので、興味をもって調べると、ちょっとふるえてしまった。

職場が首相官邸のそばなので、お昼休みによく右翼の街宣車に出くわす。下品な物言いで、大音量でがなり立て、道行く人は顔をしかめて通りすぎる。内容なんて誰も耳を傾けない。当然でしょ。

それは、左翼も同じ。あれは2011年?、経産省前でテントをはって抗議をしている人たちがいるらしいと聞きつけ、その頃は近道で行けたので、会社帰りによってみると、自分たちの存在をアピールするだけの、抗議のための抗議をやっている人たち。遠目に見て、そそくさと帰った。

去年、台南を旅したとき、たくさんのカフェが「NO NUKES NO MORE FUKUSHIMA」と印刷された、イケてるデザイナーがデザインしたであろう、オシャレな旗を掲げていて、いいな、と思った。日本もこんなふうに、カフェっぽく、できればいいのに、と。生活の延長で、日常の言葉で、ちょっとオシャレっぽっく。だって、自分たちの問題なんだから、と。

でも、日本ではたぶんムリだろうなって思ってた。反原発は政治性と結びつけられて、「ふつうの人」は引いちゃうようなコントロールがされちゃうから。電通の仕業かなんか、知らないけど。

ふるえるデモの人たちは、こんな問題を軽々とクリア。というか、ソーシャルメディアが当たり前の世代で、大手メディアのコントロールなんて最初から受けていないのだろう。「ふるえる」は、西野カナの曲名からとったそうだ。そこも、すごく新しい。

おばさんも黙っちゃいられない。明日は、予定を断って、官邸前に行ってみようと思っている。