旅日記 三陸への旅 その2

宮古に1泊して、20日朝ふたたび三鉄に乗り、田老で下車。駅で待っていたのは、意外にも、30代半ばの可愛らしい女性だった。ガイドの平山さんは、ここ最近は、修学旅行生のガイドで忙しかったそうだ。

「学ぶ防災」というタイトルのつけられた語り部ツアーは、防潮堤、震災遺構第1号になった、たろう観光ホテル跡を自動車でめぐりながら、被害の状況を聞き、最後に施設で田老を襲った津波の映像を観る、という構成になっていたが、これがなかなか練られたものだった。

昭和8年津波をきっかけに作られた10メートルの第一防潮堤と、その後作られた第二、第三防潮堤は「万里の長城」といわれ、「津波の田老」の誇りでもあったといわれている。が、それが結果的に、避難を遅らせ、多くの死者を出してしまった、という報道には接していた。

津波にも耐えた、第一防潮堤の上に立ち、以前ここに町があったとは思えない、雑草の生い茂る一面の空き地を眺めながら、地元の人にお話を伺うと、要因はこれだけではなさそうだ。

14時46分、大きな揺れのあと、防災無線が伝えた津波の高さは、3メートルだったという。誰がその5倍の波が数10分後に襲うことなど予想できよう。

震災の数年前の市町村合併によって、宮古市に合併されたことも、防災の意識を薄れさせた原因のひとつだった、と平山さん。ソーラーシステムで作動する防災警報の電源が入っていなかった、など悔やしそうに語っていた。町の主な行政機能が移ることで、田老としてのまとまりが弱まり、自分たちの町は自分たちで守るんだ、という意識が薄れてしまうことは、想像にかたくない。

ツアーのしめくくりに、たろう観光ホテルの6階から撮った津波の映像を観た。ホテルの社長は、生まれも育ちも田老。なのに、津波を見たことがない。いつか津波がくることがあったら、映像に収めようと、ふだんからビデオカメラをセットしておいたそうだ。

そして、14時46分。チェックイン前だったため客はおらず、従業員を高台に避難させた後、1人6階に残り、防潮堤の向こうに広がる田老湾と、10メートルの壁にはばまれて、海の変化に気づかない町の様子の一部始終をカメラに捉えつづけた。まさか自分のいる6階まで水が迫ってくるなど予想せず、一瞬死も覚悟したそうだ。

とても貴重な映像なのだけど、マスコミにはいっさい公開せず、田老に足を運んでくれた人に、こうして観せてくれるのだそうだ。どんな衝撃的な映像もくり返し観ると麻痺してしまうものだ。風化がいわれているけど、テレビでくり返し流され、人の感覚が麻痺してしまったことは、大いにあると思う。

受け継がれてきた教えが命を守った話もあった。

避難場所となっていた田老中学校。その日は卒業式の練習をしていて、全校生徒と教師、避難してきた住民約300人が、これまで経験したことがないような大きな揺れのあと校庭に集まった。3月なのに寒い日で、みんな寒さに凍え、やがて「もう大丈夫だろう」という空気が流れはじめた。第二防潮堤の端からわずかに見えた、第二波の水しぶきを見逃さなかったのは、最後まで津波の危険を疑わなかった、田老出身の用務員さんだった。「津波が来るぞ」の叫び声で、いっせいに裏山へ。中学生たちがお年寄りの手をとり、たすきリレーのようにして、少しでも高いところへ運び、300人全員が無事だったそうだ。この話には、涙がこぼれた。

こんな話もあった。

跡形もなくなった第二、第三防潮堤とは対照的に、引き波にも耐えた第一防潮堤。この内部は、昭和8年津波のあとに、漁師さんたちが積み上げた石でできているのだそうだ。後世の人たちを思い、一つ一つ積み上げたのだろう。この第一防潮堤で引き波がせき止められ、多くの大切な遺品が見つかったそうだ。

最後に平山さんが、ご自身の体験を話してくださった。

当時、営業で外回りをしていて、地震は立ちよっていた田老の町はずれのコンビニで経験したそうだ。揺れがおさまると、幼稚園にあずけていた息子さんが気になり、幼稚園へ行き、保育士はあまりいい顔をしなかったものの、息子さんを引きとり、車に乗せ、自宅へ向かった。本棚のマンガが落ちていたので、棚に戻し、やはり高台に避難しようと、ふたたび車に。途中、カートを引く見知らぬおばあさんを見かけた。「見ちゃったらから」、「乗っていきませんか」と声をかけた。車を降りると、水が足元まできていた。怯える息子さん。後部座席におばあさんを乗せ、カートも乗せようとするが、何が入っているのか、びくともしない。手を離すようにお願いするも、離してくれない。水はどんどんせまってくる。「離せないなら、降りてください」。おばあさんを残し、なんとか車を出した。振り返ると、膝まできた水に足をとられたのか、パタンと前に倒れたのが、最後の姿だったそうだ。消防の人とすれ違ったので、「あそこに、おばあさんがいます。助けてあげてください」。しかし、「もう無理です」。

罪悪感に苦しめられ、遺族に謝りたいと、民生委員をとおしておばあさんの遺族を探したそうだが、見つからず、4年たって、ようやく人にも話せるようになったそうだ。今ガイドをしていて、少しでも供養になれば、と。

誰が平山さんを責めるだろう。守るべきは、息子さんだったのだから。

人の心の良きものに、触れた気がした。こうした良きものを育んだ、三陸の人や風土にあらためて敬意を表したい。

語り部ツアーで私が学んだことは、自分の命は自分で守る、と、先人の教えには謙虚に耳を傾ける、という2つのこと。国の情報だって正しくないことは、もう証明ずみだ。失われた多くの命に思いをはせて、先人の知恵に学び、もしもの時に備えることを、ガイドさんたちも心から願っている。

この語り部ツアーは本当におすすめだ。あまちゃんのロケ地めぐりの途中、三陸一美しい浄土ヶ浜の海水浴の帰りなどに田老によってみてはいかがでしょうか。個人で申し込みできて、到着時間にあわせて駅まで迎えにきてくれて、所要時間もかなり融通がきくようです。

(一社)宮古観光文化交流協会 「学ぶ防災」