11月15日 曇り、夕方から小雨

今日から1週間、同僚が休暇なので、バタバタと一日中忙しかった。忙しくてうれしいのは、仕事が終わってから飲むビールが美味しいこと。今2缶目だけど、今夜は3缶飲んでしまいそうな勢いだ。

村上龍がエッセイの中でふれていた、片岡義男の『日本語の外へ』という本を、図書館でとりよせて読み始めた。厚さが5センチもあってびっくりした。日本語と英語の構造の違いをとおして、日本とアメリカの文化比較をしてるようなんだけど(かなり大雑把)、片岡義男ってこんな学識高い人だったんだね。村上龍が引用してた時点で、ちょっと意外だったんだけど。学生の頃、片岡義男のファンってちょっとバカにされてた気がするんだけどな。小説家をあなどっちゃいけないね。

5センチもあるから、興味のある章だけ読んで、返すことになると思うんだけど、かなり興味深い。英会話勉強しなくちゃ、というプレッシャーだけはもち続けてきたので(なにしろ英語学科卒だから)、日本人の英語力についての論考は多少目にしてきたと思うけど、こんなに興味深いものは初めて、というぐらい。

片岡義男ダライ・ラマとネルスン・マンデラの英語を評価している。中国がチベットの暴動を武力で制圧したとき、メディアに登場したダライ・ラマがしゃべる英語は、たしかに魅力があった。ヒアリングが苦手な私にも十分に聞きとれる、日本人英語に近い発音なんだけど、幾多の交渉を重ねてきた経験を感じさせたし、ウィットがあった。あの英語を聞いて、ダライ・ラマの人物そのものに興味をもったほどだった。

「日本の首相、そして政界や財界の高い位置にいる人たちが、ダライ・ラマのような英語を駆使したなら、そうでない場合にくらべて、日本の運命は大きく違ってくるにちがいない」とまで、片岡義男は言う。ダライ・ラマの英語は、「英語の開かれた抽象性をきっちりと学んで自分のものとした、誰とでも共通の場に立てるという意味においてたいそうインテリジェントな、したがってどこまでも機能して止むことのないグローバルな言葉だ」と。

せっかく英語を母国語としないアジア圏の人がたくさんいる会社に勤めているのだから、欧米人みたいな英語をしゃべれないのが恥ずかしいことでもないし、異文化の人とコミュニケートするツールとして、英語をもっと積極的にしゃべっていかなくちゃな。その過程で、英語のもつ抽象性とかグローバルな機能とかを一瞬でも感じられたら、しゃべることが面白くなるかもしれない。